どんな背景から、いつ「アースデイ」は誕生したのでしょうか? さらに、現在に至るまでの環境問題をめぐる大きなトピックを振り返ります。
アースデイが生まれた時代
1960年代・アースデイ前夜
レイチェル・カーソンの『沈黙の春』が出版されたのは1962年。人々の関心が「環境」に向き始めたのは1960年代のことでした。ちょうど、アメリカでは学生によるベトナム反戦運動が盛んだった時代でもあります。その流れのなかで「LOVE&PEACE」の考え方が広がり、オルタナティブな暮らしを模索する動きも始まっていました。
1968年・初めて見た地球の姿
1968年12月24日、アポロ8号の宇宙飛行士が月から昇る地球の姿「アースライズ(地球の出)」を撮影します。いまでは多くの人がこの映像を目にしていると思いますが、人類が地球を外から見たのはこのときが初めて。青く丸い地球の姿を認識したのは、いまからたった50年前のことなのです。
アースライズ以降、さまざまな意識改革が起きていきました。環境への意識は段々と高まってはいましたが、それまでの環境運動といえば、特定の地域や公害問題に対するものがほとんど。しかし、地球の姿を認識してからは、地球全体を「ひとつの生命圏」としてとらえて保全していこうという、新しい環境運動が始まっていきます。
1970年・なんでもない日を「地球の日」に!
そして、このアースライズから15カ月後、世界最初の「アースデイ(地球の日)」がアメリカで誕生します。G・ネルソンという上院議員の「環境の日が必要だ」という発言に呼応したのが、スタンフォード大学に通うひとりの学生、デニス・ヘイズ。デニスは「『母の日』や『父の日』があるのに『地球の日』がないなんておかしい」と呼びかけ、4月22日水曜という平日の“なんでもない日”を「地球の日」としたのです。
インターネットのない時代にもかかわらず、アースデイは口コミで全米に広がりました。ある人は自然を感じるために山に登り、ある人は自転車に乗って自動車をボイコットする――それぞれが出来ることをするという、自由で多様なスタイルもアースデイの特徴です。当時、全米で約2000万人がアースデイのアクションに参加したと言われます。さらに、これがきっかけとなって、アメリカでは環境省がつくられ、環境に関する法律も次々と制定されました。
実は、日本の銀座で歩行者天国が始まったのも、アースデイがきっかけだったことを知っていましたか? 最初は自動車のボイコットとしてのアクションだったのです。1970年にアメリカで始まったアースデイのアクションは、いまでは日本だけでなく中国やインドなどでも行われていて世界各地に広がっています。
地球環境をめぐるトピック
1973年・『成長の限界』による警告
アースデイが誕生した頃、世界ではさまざまな学者が地球環境に警告を発し始めます。1973年、世界的なシンクタンクであるローマクラブが、コンピュータによるシミュレーションで未来を予測。『成長の限界』を刊行しました。
「世界の人口、工業生産がいまのままの成長を続けるなら、食料不足や環境破壊によって地球の成長は限界を迎えるだろう」と、私たちの成長が無限ではないことを予測したのです。さらに、『成長の限界』では地球温暖化の可能性にも触れていました。しかし、当時の人々は「まさかそんなことが起こるはずがない」という反応でした。それから40年以上経ったいま、私たちは温暖化の予測がどうなったのかを知っています。
1992年・「地球サミット」の大きな影響
国連で地球環境を考えようという動きが始まったのも、この時代です。1972年、「Only One Earth(かけがえのない地球)」をスローガンに、環境に関する世界初の国連会議「国連人間環境会議(ストックホルム会議)」が開催されました。
その後、80年代を通じて環境運動は続いていきますが、再び世界が地球環境に向き合うきっかけとなったのが、1992年にブラジル・リオデジャネイロで開催された「国連環境開発会議(地球サミット)」でした。
約180カ国が参加した地球サミットでは、「サステナブル・ディベロップメント(持続可能な開発)」の理念が掲げられ、環境と開発の分野での国際的な取り組みに関する行動計画が採択されました。このサミットから気候変動枠組み条約、生物多様性条約が生まれ、世界の環境政策に大きな影響を与えたのです。
また、カナダに住むセヴァン・カリス=スズキという12歳の少女が、「子どもの代表として私にも話をさせてほしい」と飛び入り参加したことも大きな話題になりました。各国の首脳が集まる前で、セヴァンは「どうやって直すのかわからないものを、こわしつづけるのはもうやめてください」と鋭いメッセージを投げかけます。ここに一部を共有しますが、動画もぜひ一度見てみてください。
※YouTubeリンク
〈こんな大変なことが、ものすごいいきおいで起こっているのに、私たち人間ときたら、まるでまだまだ余裕があるようなのんきな顔をしています。まだ子どもの私には、この危機を救うのになにをしたらいいのかはっきりわかりません。でも、あなたたち大人にも知ってほしいんです。あなたたちもよい解決法なんてもっていないっていうことを。
オゾン層にあいた穴をどうやってふさぐのか、あなたは知らないでしょう。死んだ川にどうやってサケを呼びもどすのか、あなたは知らないでしょう。絶滅した動物をどうやって生きかえらせるのか、あなたは知らないでしょう。そして、今や砂漠となってしまった場所にどうやって森をよみがえらせるのか、あなたは知らないでしょう。
どうやって直すのかわからないものを、こわしつづけるのはもうやめてください。〉
2012年・「リオ+20」の失敗と希望
そして、この地球サミットから20年後の2012年、再びリオデジャネイロで「国連持続可能な開発会議(リオ+20)」が開かれました。「The Future We Want(私たちが望む未来)」というテーマで、かつての『成長の限界』で発表された未来予測の検証が行われます。その結果わかったのは、1972年の未来予測とほぼ重なる形で、地球環境が悪化していることでした。
『成長の限界』にも参加した学者の一人、ヨルゲン・ランダースが行った新しいシミュレーションでは、2040年頃に人口81億に達した時点で人類はブレイクダウンを起こしていくというシナリオが提示されました。「リオ+20」が開催されたのは、人口がちょうど70億人に達した頃です。
しかし、こうした悲観的な未来予測にもかかわらず、このサミットで国際社会は地球環境問題について歩み寄ることができませんでした。「リオ+20」は、意義ある合意形成をつくることができないままに終わってしまったのです。
「国際社会は地球の未来をあきらめてしまったのか」という失望の声があがる一方、新しい希望となる出来事もありました。この「リオ+20」の開催中、リオデジャネイロには世界中から10万人のNGOや市民が集まっていました。そして、国連会議の外でも、エネルギーやコミュニティ、環境教育など多岐にわたるテーマで約3000もの会議が自立的に行われていたのです。
国連や国といった大きな組織に任せるのではなく、私たち一人ひとりが自分からアクションを起こしていく――22世紀の新しいガバナンスに向けて、すでに大きな転換が始まっているのです。
(→その2 ~谷崎テトラさんに聞く「このままだと地球はもたない?」~ へ続く)
〈情報提供・監修〉谷崎テトラ:放送作家、一般社団法人ワールド・シフト・ネットワーク・ジャパン代表理事、京都造形芸術大学・創造学習センター教授ほか。環境・平和・社会貢献・フェアトレードなどをテーマにしたTV、ラジオ、WEB番組、出版、イベントの企画・構成を通じて、新しい価値観(パラダイムシフト)や、持続可能な社会の転換(ワールドシフト)の 発信者&キュレーターとして活動中。音楽制作やさまざまなユニットでのLIVE、DJも行う。